aieが語る芸能生活25年。aieが考える人との別れ

INTERVIEW

9月26日、45歳になったaieは、deadman、the god and death stars、
gibkiy gibkiy gibkiy、keinと複数のバンドで精力的に活動中だ。
これまでのバンドを振り返ると、
ギタリストとしての個性を確立させてきた歩みが見えるだろう。
バンドマンとして25年、一人の人間として45年、長い歳月を重ねた今、

思うこと、そして大切な人との別れについて、話を訊いた。
                                 (PHOTO BY マツモトユウ)

●改めて、芸能生活25周年、45歳のお誕生日記念のライヴを振り返ってみていかがですか。
「悪い言い方をすると、あのイベントはいろんな人たちに巻き込まれたんです。25周年と45歳で区切りがいいから、よかれと思ってkazu君がその日の新宿LOFTを押さえてくれて、よかれと思って制作会社が乗ってきて、よかれと思って『間瀬大芸能生活25周年―虹の祭典』というタイトルをつけてくれて(笑)。あのタイトルにしたことによって、何か特別なことをやらなきゃいけないのかな、みたいになったんです」

●ご自身としては、節目みたいな気はなく?
「全くないですね」

●Lamielを演奏したことについてはいかがでしたか。
「Lamielと同じように、20年ぐらい前にやっていたkeinが復活して、今活動してるじゃないですか。keinはね、今もやれるんですよ。でも、keinと活動期間がほとんど変わらないLamielをやってみたら、kazu君も俺も全員、“やっぱ90年代っすね”ってなったんですよね。Lamielは純粋に黒夢とGargoyleが好きですっていう人間が集まったバンドだったから、古き良きな面もあるんですけど。明確な差がkeinとLamielの間にあったんだなと」

契約書を読まずにサインして始めたLamiel

●ここからaieさんのバンド歴をたどっていきたいんですけど、まずはLamielとなりますか。
「Lamielをやったのが高校を出たばっかりで、その前はSOPHIAみたいなソフトヴィジュアルっぽいバンドをやってました。そんなに人気はなかったけど割と充実感はあって。そこでLamielに誘われて、初めは断ったんですけど、メンバー全員で俺の家に乗り込まれて、デモテープとか聴かされて。話を聞いたら、最初のライヴの日程と、そこに合わせてデモテープのリリースも決まってて、それまでやってたバンドとはちょっと規模が違うと思ったんです。それで、1回この船に乗ってみようかなと思ったんですね」

●Lamielにはかなり期待していたというか、自分が乗った感じだったんですね。
「乗ったけど、リーダーは俺だったんですよ。なぜかというと、事務所と家が近かったから(笑)」

●そこで、バンド活動のやり方、ノウハウみたいなのを知ったんですか。
「そうですね。小遣い程度の給料しかもらってなかったんですけど、その代わり、バンドのやり方を学んだかな。出会いとか人脈とかも得たし」

●keinをするときは、逆に自分たちでもうできるという感じ?
「自主でやってましたね。ただ僕、契約上の問題で、keinは実働1年なんですよ。Lamielを脱退した後、半年か1年間はバンド活動をしてはいけなかったんです、契約上。だからライヴには参加せず、レコーディングだけしてたんですよ」

●その当時に、そんな契約上のしばりがあったのはすごいですね。
「Lamielは契約書にサインした気がしますね、読まずに(笑)」

●そこからkeinとしては順調に?
「keinは人気がありましたからね。口コミとかで伸びていって、俺が言うのもなんですけど、俺が入ってドカンですわな(笑)。俺が入って完成したというか、逆に言えば導火線に火をつけてしまって、早く爆発しちゃったのかもしれないけど」

●deadmanを始めるときは、ゼロから自分が思い描くバンドを作ろうとしたんですか。
「結成したときは、まだ眞呼・yukinoの船に乗ってた感じがしました。初めは、眞呼with Spread Beaverじゃないけど、ヴォーカルがゴシックでオケ(楽器隊)がロックンロールみたいなことを考えていて。当時参考にしたのが、Plastic_Treeの『Puppet Show』。でも、いまいち定まってなかったです。脱ヴィジュアル系が憧れがちなブランキー(Blanky Jet City)っぽくしたいと思って、ガレージロックな感じをDEADMANの頃はやってたかな。でも、keinの次のバンドということで期待値が高かった分、動員がガーンと減って。世界観を変えすぎて、keinを求めていたお客さんを離してしまったんです。でも今となれば、それがよかったと思う。そこで1回つまずいて、どうする?って言ってる間にyukino君が抜けて。小文字のdeadmanにした頃から僕がマネジメントをやるようになって、David Skull No Recordsも生まれて。いろいろ勉強したし、その辺りでバンドが見えてきたと思います。そこからも試行錯誤してきたけど、今のdeadmanとはそんなに変わらないかな」

●aieさんとしても、変化したという感じはないんですか。
「変わってないと思いますね。変わったのはそれより前ですね。keinの解散直前に交通事故に遭って機材が全部壊れたんです。それまでは、『ロッキンf』とか音楽雑誌を読んで憧れの先輩のモノマネで、若いなりにシステムを組んでたんですよ。だから悪く言えば、機材に頼ってたというか。でも、解散ライヴ1本だけのために機材を揃えられないから、借りたアンプと小さいエフェクター何個かだけでやってみたら、それで何とかなることがわかったんですね。もしかしてギターが上手くなってるのかなと思って、deadmanではそのスタイルでいくことにしました。そういうギタリストがあんまり周りにいなかったし、キャラクター的にひとつ確立できるだろうし。上手いプレイヤーとは違う攻め方をしようと思ったのはその頃かな」

●当時から、そんなに冷静に考えたうえで判断したんですか。
「いや、みんなNirvanaが好きって言ってるわりに、カート・コバーンみたいなギターを弾く人がいないし、レッチリ(Red Hot Chili Peppers)の新譜がどうだとか言ってるわりには、作ってる楽曲のどこにもレッチリの匂いがしないし。聴く音楽と好きな音楽が違いすぎないかなと。だからdeadmanは、聴いてきた音楽をわかりやすく伝えようと思ったんです。それで、わざとNirvanaっぽくしてみたり、同じドラムフレーズをぶち込んでみたり。それこそデヴィッド・ボウイとか椎名林檎の曲と同じフレーズを弾いたり。そんな感じで、影響を受けた音楽を出して行きたい。バレないようにパクるんじゃなくて、バレるようにオマージュしたい。しかも、馬鹿でしょ?、滑稽でしょ?っていう感じで。そこがいいんじゃないかな」

●でも、すごくしっかり考えたうえでのことにも思えますが。
「わかんない。ただ、お客さんを増やすためというのは全く考えてない。バンド内では、やっぱり絶対こっちがカッコいいよねっていうのはすぐ決まるから、メンバーの間では、ただ“いいね”の連続なんです。これだけ好きなこと、カッコいいと思うことをやって、それで売れなかったら、もうそれはしょうがない。人気がないなら人気ないでいいかなと思ってやってた。だから、復活してもやれる音楽だったわけですよね。結局、今振り返ればよかったのかなと思います」

the studsの始動は、“LOVE禁止”の歌詞から

●deadmanはバンドとしてはいい状態だったのに解散せざるをえなくなりましたよね。そこでまた一からバンドを始めるというのは、大変だったんじゃないんですか。
「deadmanは、プライベートとバンドを比べたときに、生活を重視したくなったメンバーがいたから、解散はしかたがなかったし、どんなバンドも始める頃が一番調子に乗ってるから、次のバンドをするのが大変ということはなかったです。バンドを始めるときって、いざ活動が始まって蓋を開けてみて、軌道修正、軌道修正の繰り返しだと思う。でも、the studsはね、やっておくかっていう感じでした。大佑とは、お互い10代の頃から一緒にやろうよってずっと言ってたけどタイミングが合わなくて。その頃も、何度も断って、何度も呑みに行って、そのうちに一緒にやるなら今かな?って思ったんです」

●the studsに関してはしっかりマネジメントがついていたので、やはり違いはありましたか。
「そこで、予算の組み方とかいろいろ学びましたよね。文句もあったけど。使い切れなかった予算を他に回すのはいいんだけど、使い切らないと次回の予算が減るから、無駄遣いでもいいから使えっていうのはもったいないし、余ったお金は次のアルバムの制作に回そうよって思いましたよね。それができないっておかしくない?って」

●そこは、お役所的というか、あくまで会社的な硬直したやり方なんですね。音楽的にはやりたいことができる、みたいな感覚だったんですか。
「試行錯誤でしたけどね。お互いMerry Go Roundとか黒夢が好きだったけれども、同時にTHEE_MICHELLE_GUN_ELEPHANTが好きで。ヴィジュアル系をやってきたけど、1回ミッシェル方向へ行ってみませんかっていうことで始めたんです。だから、しばらくは歌詞に“LOVE禁止”って言ってた時期がありました。大佑が得意な失恋の歌は一回やめてもらって。LOVEといっても地球規模のLOVEならいいよ、みたいな」

●お客さんは戸惑ったんじゃないですか。
「戸惑ってたでしょうね、蜉蝣と逆でしたからね。いきなりグラサン付けてるって(笑)。動員的にはガタ落ちですよ。でも、今と比べれば人気はありましたよね」

●当時とは、動員数に対する感覚が違ってきているでしょうね。
「コロナの3年間で、バンドに依存していたファンの子たちが、バンドがなくても大丈夫かもって気づいてしまったんだろうと思ってるんですよね」

●時系列は飛びますが、deadmanとkeinが復活してお客さんが入ってることはどんな風に受け止めていますか。もしコロナがなかったら、
「もっとお客さんが入ってると思います」

●それはすごい。それだけお客さんを呼べると思えるのは、バンドの持っているポテンシャルゆえですか。
「半分ぐらいはノスタルジーかな。お客さんたちの記憶の中でバンドが美化されてて、さらに今見てやっぱりいいよねって思える。その感想を引き出せるのは、我々がさらによくなってるからこそなんだけど。それが半分で、ほかは、例えばkeinだとlynch.からお客さんが流れてきてるとか。deadmanは、バンドとしては今のほうがいい気がする。新曲もいいし、とにかく仲がいいから、kazu君と晁直も含めて」

●deadman解散前は、金銭的に回したいとか、メジャーレーベルと契約したいとかがあったけれど、そういうのから解き放たれてノビノビ自由に活動できるみたいなこともあるんでしょうか。
「そうですね。それに、もうみんな大人だから、俺が俺がって誰も主張しないし、金でもめることもないし、そんな貧乏でもないはずだし。もうバンドが終わる理由がない。特に今は眞呼さんと2人だし。なんだけれど、実際はあの4人だから」

●今の境地にたどり着いたのは、the god and death starsに加え、highfashionparalyzeやKEEL、THE MADCAP LAUGHSと、いろんなバンドの活動をしていた時期があったからこそですか。
「もちろん、もちろん。あれを経てですよ」

●あの時期は、やりたいことをとにかくいろいろ試してみたい感じだった?
「やりたいことは全部やってましたね。今は、KEELの活動はないなと思ってます。音楽性も含めたベクトル的に、deadmanとkeinがあることによって必要がなくなったんですね。だから今、deadmanとthe god and death starsとgibkiy gibkiy gibkiyの3バンドで、すごくバランスがいいんです。keinも、バンドの今後がちょっと見えてきた気がしてるし。あとはスケジュールさえしっかりすれば」

●昨日も北海道でしたし、やっぱりスケジュールは大変ですよね。
「もうちょっとゆったりやりたいというか、ものを考える時間がほしいかな。インストアイベントと移動しかない日でも、考える脳にならなくて。体が疲れてるみたいで、移動中ずっと寝ちゃうんです。昨日なんてね、帰りの飛行機で浮いてる時間を知らないです(笑)。座席に座った瞬間に寝てたから」

●それだけスケジュールがハードな中、ありがとうございます。ただaieさんに関しては、それでも曲がつくれなくて大変みたいな印象はないんですけど。
「いや、今焦ってますよ、時間がなくて。メンバーが揃ってスタジオに入れる時間が限られてるから」

●曲が全く自分から出てこない、みたいなことにはならない?
「出てこない日はありますけど、明日には大丈夫じゃない?って思うから」

●もっとギリギリに追い詰められているバンドマンもいる気がするんですけど。
「それはないですね。もともと人からパクッてないですから。影響は受けてますけど、意識して音楽をパクッたことはない。ミュージシャン同士の会話で聞いててイヤだなと思うのが、“最近、何かネタありました?”っていう言葉。そういうふうな意識で音楽を聴いてるから、たいしたものがつくれないんですよ」

●なるほど。でも、0から1をつくれないから、どこかから0.1ぐらいを持ってこようとするんでしょうけど。
「俺は逆に、土台を作った上で、それをちょっとMinistryみたいにしたいなとか、そういうやり方をよくします。kazu君に、“リズム、どうしよう?”、“じゃあ、布袋っぽくしようか”とか、そういうアレンジの仕方をするんですよね」

●音楽を長く続けていると、小室哲哉さんみたいにどの曲を聴いても小室さんだなみたいな、パターンが出来上がったりしますけど、そういうのはあったりしますか。
「それは、godの自分の歌とdeadmanの眞呼さんの歌と、gibkiyのkazumaさんの歌と、3人歌う人がいるからいいんです。同じ原曲から、3人で全く違うアプローチで曲を完成させるのを一度やってみたい。全然別の曲になって、お客さんは同じ曲だと気づかない可能性もあると思います。同じ原曲でも、deadmanではマイナーで、godではメジャーに変わったりするかもしれないし。そういうやり方も面白いかも」

●つまり、自分だけで曲を作り上げるんじゃなくて、ロックバンドという形態を通してどうなるか、というのがaieさんの曲作りなんですね。
「曲は、必ず顔を合わせて演奏して作る。メールとパソコンのデータのやり取りでやっていると、俺以外は気づかない些細なところをメールで伝えるのが面倒くさくなるんですよ。“(aieが言ってるのは)どこですか”、“何分何秒ですか?”っていうのを繰り返してると、ま、このままでいいかって思っちゃう。でも、それが音楽にとっては意外とものすごく大事な部分だったりするんです」

●そんな些細なところも、スタジオで顔を合わせてやっていればわかるんですか。
「“そこ!”って言えばいいから。ミックスするときそうで、“もうちょっとスネアの音が~”とか言うのも、口頭で言うのと文面で書くのはちょっと伝わり方も違うし。面倒くさいって思います」

●こうやって音楽をできている状態で45歳を迎えたわけですけど、それはねらい通り?
「全部偶然ですよね。keinの復活も俺にしては偶然だし、玲央さんが思わなかったら、たぶんなかったし」

●でも、ただラッキーだったということはなくて、頑張ってきたという自負はあるんじゃないですか。
「頑張ってるなとは思うけれども、本当に皆さんのおかげですよね。メンバーのおかげ、お客さんのおかげ、みんなのおかげ。ただ、自分を分析する六角形(エニアグラム)を作って、影響力とかネームバリュー、金銭面、いろんなものを考えると、30代まで報われてきてなかった部分が、40代でやっと評価されるようになったとは思います。いろんな先輩からギターを褒められたり、俺のことを知らないだろうと思う人まで俺のことを知っててくれてたりするから。収入面も含めたりすると、40代になってから全ての面で満足がいってますね」

●評価が後からついてきた。
「もとから変わったギタリストであるという自覚はあるし、なかなか特殊なギターだから評価されにくいとわかってたんですけど、マーベリックで仕事をするようになって知り合う先輩も増えてきて、やっぱりブレずにやってきてよかったと思うようになりました」

●自信もついてきている? 
「そうっすね。たぶんギターが上手いほうだと思ってます。技巧派ではないですよ。全く別の部分で、ステージで演奏すること、ギターをアンプで鳴らすことがたぶん上手いんですよ。ちゃんと真空管の火が通った音を鳴らすのには自信があります。今はプログラミングされた音やシミュレートされた音が主流だから、好き嫌いがあるけど。俺は、切ったら血が出るような音を出したい。だから、会場が違えば鳴る音が違うのは当たり前だし」

●エレキなんだけど、すごく人間的なイメージですよね。
「波形で音楽を見てほしくないんですよ。そういう点で最も影響を受けたのは、カート・コバーンとレッチリのジョン・フルシアンテなのかなと思います。その日の体調まで音になるような。二日酔いの音でもいいと思う」

体は入れ物なんじゃないのかな。

●では最後に、このタイミングで取材の機会を持てたので、ぜひおうかがいしたいと思っていたことを。残念なことにこの夏は近しい人たちの訃報が続きましたが(取材は10月中旬)、後悔しないように生きるということをthe god and death starsで歌詞にしているaieさんは、どんな風に受け止めていらっしゃるんでしょうか。
「先輩たちがね、次々にいなくなってしまいましたけれども、突然の人もいれば、予告のある人もいたし、僕の耳には届いてなかったけど予告を受けて闘っていた人もいたりして。そこの違いはすごく大きいと思う。状況によっては、自分自身も周りの人も心構えができるから」

●ずっとPAをお願いされてきた山本昌生さんに関しては闘病中でしたよね
「山本さんは、3年ぐらい前に病気がわかったときから、やれるかどうかわからないけど、最後まで現場に行きたいと言ってたんです。だから、山本さんが望むなら病院のベッドで寝てるより現場で楽しく仕事しましょうよって言って、9月のkeinのツアーを回ってもらったんですね。亡くなる2週間前かな、keinの仙台が最後の現場になっちゃいました。その翌週の名古屋は具合が悪くて別のPAさんにお願いして。“しっかり休んで、またファイナルぐらいで”って言ってたら、駄目だったから。keinの埼玉や仙台の現場に、あの体で仕事をしてしまったことがもしかしたらよくなかった可能性もあるけれども、僕はやりたいことをやったほうがいいと思ったし、山本さんもそうでありたいと言ったから。“悔しいな、寝てるぐらいだったら行きたい”って言うし、“俺もいい演奏するし、大きな声で笑ってりゃ、よくなりますよ!”とか言ってたんですけどね」

●すごく悲しいですけど、最期までやりたいことができたのはよかったのかも。
「山本さんの訃報を聞いたのが、俺の45歳の誕生日の午前中で。狙ったんじゃないかなと思う(笑)。一生忘れさせねえぞって。新宿LOFTでライヴだったから、seekとかも遊びにきたんで、ライヴ後にみんなで呑んで、山本さんが昔怖かった話とかしてしっかり笑って」

●山本さんが怖かったというのは、ちょっと意外ですね。
「俺らが若かった頃、19、20とかの頃は怖かったですよね。俺たちの演奏が下手なのがダメなんですけど、何度も“もうやめちまえ!”って言われました。そんな思い出話をしたり、ツアーの移動中とかの山本さんの大きな声じゃ言えない失敗話とかして(笑)。みんなで笑って送ってあげようって。そのほうが喜んでくれると思うんですよね」

●山本さんは、aieさんをギタリストとしてどんな風にご覧になっていたと思いますか。
「いつだっけな、deadmanの解散間際かな。楽屋でそういう話になって、山本さんがPAをしているバンドで、ヴォーカルとギターとベースとドラム、それぞれのナンバーワンは誰でしょうみたいなことを聞いたんです。ギター1位は俺だったんですよ。ヴォーカル2位が眞呼さん」

●あれ、ヴォーカル1位は?
「高野哲さん。ギター1位って言われたのは嬉しかったです」

●ギタリストとして山本さんのPAでステージに立つのはいかがでしたか。
「我々はCDを作って完成ですけど、そこからライヴに向けて音を作るのは山本さんたちの仕事だから、“ここをこうしてもいいかな?”って、山本さんの発想が入るところもあるし。演出面にも山本さんの意見が入ることはありましたよね。山本さんがいなくなっちゃったから、我々がそういうことをしていかなきゃならないね。山本さんからいろいろ楽器も引き取ったので、ずっと使っていこうと思ってます」

●亡くなっても、これまでの思い出とか故人が遺していったものがあって、その人が消えてしまうわけではないんですよね。
「ただ、人によっては、亡くなったという現実感がないこともあるんですよ。オナン(・スペルマーメイド)さんは頻繁に会ってたわけじゃなくて、タイミングがあったら会う感じだったから」

●今しばらく会ってないだけで、また次に会えるような気がしたりしますよね。
「そうなっちゃう。でも、いなくなったのは悲しいですけど、悲しいのも残された者の意見だから。俺は、体は入れ物なんじゃないのかなと思ってるんです。体は死んで、次に意識の段階になるんだろうと思うから、そんなに悲観してはなくて、しばらく会えないっすねぐらいの感覚。大佑に対してもそうです。今のところ、俺の中では死に対してはそういう考え方になってますね。ちょっと矛盾するけど争いに巻き込まれて死んじゃうのはイヤだなと、今のイスラエルとガザを見てて思います。その日その場所で死ぬはずじゃなかった人が死ぬのは違うと思う」

●縁起でもない話ですが、ご自身の死について考えることもあります?
「俺は、余命宣告を受けてから死にたいかな。準備しておきたい。今、余命1年って言われたら、とりあえずはdeadmanのアルバムを完成させる。それからkeinも新曲を作るんだったら作って。gibkiy も今まで出した曲をまとめた作品を予定してるからそれをやって。godも最後に何か作っとくか、みたいな(笑)。あとは、山本さんにならって、体が動くまでライヴをしたい。ちゃんと葬式のことも、kazu君に手配してあるんですよ。ツアー中に酔っぱらったときのとんでもない写真とか動画をkazu君のところに集めてもらってて、俺の葬式で無料配布してもらうことになってるんです(笑)。俺の葬式は、それで腹から笑ってほしいですね」

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