ライヴハウスでアルバイトをしていたseekは、
DAISHIに声をかけられてPsycho le Cémuのメンバーとなった。
プレイヤーとしての経験も浅く、懸命に活動について行っていたのが、
いまでは、活動にまつわる諸々を取り仕切るような存在になっている。
そんな変化をも冷静にみつめ、未来を見据える眼差しは、
明るい希望にあふれつつ、重い覚悟が垣間見えた。
●25周年を迎えることを改めて考えたり、しみじみ思うようなことはありますか。
「感慨深いと感じるのは、25周年ということより、再始動が始まって10年経つことのほうですかね。10年続けることは、自分の中でデカい意味があるんです。ただ、やっぱり25周年は大きな節目でもあるし、自分たちを取り巻く環境とか、これから先の10年について考えるきっかけになってるところはあります。25周年を迎えられるバンドがどれだけいるんだろうって思うと、単純にすごいことだと思いますしね。やっぱり残ってるバンドは、こうやって残ってきたんやなって思うだけの理由があるんですよ」
●自分たち自身が残っていることも、やはり理由があると?
「めっちゃ思います。本当に一個ずつの決断の積み重ねの結果だという気がするんですよね。俺らは、売れないと意味がないということが頭にあったから、そのためにした選択がすごく大きかったと思う。あの時代にそう思えたことによって、メディアを通したりして出会えたファンの人がたくさんいるし、あのときにPsycho le Cémuという名前を知ってもらえるきっかけを作れたのが、確実にいまにつながってると思うんです」
●Psycho le Cémuの知名度は、当時のヴィジュアル系のバンドの中でもズバ抜けてましたよね。
「あの当時に、五千、六千人の前でライヴをやらせてもらって、十万枚近くCDが売れてなかったら、いまはたぶんないと思う。それは俺らバンド単体だけではなくて、シーン全体の規模であったり、90年代、2000年代というヴィジュアル系が注目された時代があったことがもちろん影響してると思いますけど」
●バンドとしては、常に売れることを意識していたんでしょうか。
「そうですね。初ライヴから、最前列のファンの人に向けてじゃなくて、フロアにいるそれ以外のお客さんに向けたセットリストばっかりやってたんですよね。だから、ファンの人は飽きまくってたと思いますよ。でも僕らは、今日初めて観る人に、ベスト盤を観てもらいたかったんですよね」
●その日が初めての人もいるわけですもんね。
「その繰り返しだったし、デビューしてからもその考え方でした。目の前に六千人の人が応援してくれてるのに、申し訳ないですけど二万人のお客さんをターゲットにしてやってるみたいな感じ。特にメディアに出てるときはその感覚だったと思う。だから、テレビに出たときにイロモノ扱いされていじられても、俺らはよかったんですよね。でも、ファンの中には怒る人もいて、テレビ局に電話しましたみたいなことを聞いたりもしたし、なんでそんなことをするんやろうって俺らは思ってた。そういうことがあって面倒くさいって思われたら、もう呼んでもらえんくなるかもしれんから」
●めちゃくちゃ悲しいすれ違いですね。
「そうですよね。でも当時は、そんな感じでしたね」
●そうおうかがいすると、ずっと応援し続けているファンの方は改めてすごいと思います。
「ほんまにそうです。Psycho le Cémuのファンの人は、メンバーからのありがとうっていう優しさをあんまり受けずにきてしまってるかもしれないし、逆に離れていった人もたくさんいらっしゃると思います。デビューした後に、俺らは「浪漫飛行」(米米CLUB)をカヴァーしたんですね。それで本当に一般の人に知られるようになったし、DAISHIは街を歩いてたらすぐ気づかれたりするぐらいになったんですけど、確実にあの瞬間に離れていったファンの人はいたんです」
●ヒット曲のカヴァーというのは、受け入れられなかったんでしょうか。
「売れたいって開き直ってる俺らと、俺らにカッコつけてほしいというファンの思いがすごくズレていってると感じてました。俺ら自身も、そのタイミングでカヴァーをすることがピンときてないのにやっちゃったところもあったから。何をするにしても、ピンときてないことはやったらダメなんですよ。自分らがわかってないと取材でも話せへんし、「浪漫飛行」のカヴァーをほんまにやりたかったら、もっとプロモーションのときにいい話ができてたと思う。やらされてる感が絶対に出てた。どこか乗り切れてなかったところがあったんです」
●売れたいという気持ちはあっても、もちろんやりたいこともあるだろうし、逆にやりたくないこともあるだろうし、難しいですよね。でもそういうのが、ファンに透けて見えたりするのかもしれないですよね。
「俺らはエンタメのバンドだし、ファンの人に喜んでもらいたいという言葉を使ってしまいがちなんですけど、意外とそういう言葉って中身がないときがあったりするんですよね。ファンの人の反応ばっかり気にしすぎるというか。でもそれって、ファンという枠をどう捉えるかで変わるじゃないですか。知名度を上げることを考えるなら、老若男女初めて見た人でも喜んでもらえる着ぐるみであるべきなのかもしれないけど、ずっと着ぐるみを続けてるなら、ファンの人はすっぴんのほうが沸くだろうし。ファンの人のためっていう言葉の呪縛はいまもあるんですけど、ちゃんと目の前のファンの人のことを考えないといけないって意識するようにはなってます」
一緒にハイエースに乗るから生まれる会話
●さて、seekさん個人としては、Psycho le Cémuの再始動のときから、バンドの運営に対する関わり方は大きく変わりましたよね。
「別人格です。違う人が出てきたんです(笑)。再始動することになってマネジメントチームと話し合いがあったときから、Mix Speaker’s,Inc.で自分たちがマネジメントをやってたから、マネジメント同士の会話になってたと思います」
●そういう変化を、ほかのメンバーさんが受け入れたということなんですか。
「そうですね。だから、メンバー間のバランスは昔とは全く別のバンドぐらいに変わったと思います。もともとDAISHIがやってくれていたものを俺がやることが圧倒的に増えたし、“seekがこだわりがあるんやったら、そこは任せるで”ってDAISHIさんが言ってくれたし。YURAサマもDaccoを自分でマネジメントしてるわけやけど、seekがそういう立ち位置でものを言うんやったら自分は控えようとしてくれているのも感じてます。YURAサマは、ほんまは思ってることがあるやろうけど、いまのPsycho le Cémuでは後ろで見守っていくスタイルにしようとしてる感じがする。それはインタビューでも言ってましたけど」
●そういう互いの調整みたいなのが、上手くできるようになったと。
「メンバー同士の距離感がちゃんと保てるようになってますよね。一度、関係性がぶっ壊れてますから。仲が悪くなったら続けられないよねっていうのを感じたことがあるから、めっちゃ仲はいいけど、人一倍みんなちゃんと考えてるのかなと思います。だから、ガス抜きというか、腹を割ってというか、話すようにはしてますよね。一歩踏み込んじゃうとバランスが崩れるかなと思うこともあるけど、やっぱり話さないとわからないことだらけやから」
●当たり前のことかもしれないですけど、やっぱりコミュニケーションが大切なんですね。
「そこで岐路になったのは、2021年の『勇者物語」というツアーの浜松のライヴのときなんです。そのライヴの少し前にNACK5の『BEAT SHUFFLE』にDAISHIと二人で出演して、帰りに飯を食いに行ったんです。そのときDAISHIさんから、バンドをこうしていきたいみたいな考えを言われて。あの人もね、お店とかジムとかいろいろやってたりするから、何を考えてるんやろって思ったときもあったけど、そういうバンドに対する考えを聞いて、それは絶対みんなに伝わってないからすぐにその話をしたほうがいいと思って。それで、浜松のライヴの後に五人で飯を食いに行ったんですよ。めっちゃ話して、最後みんなベロベロになって(笑)。そこで改めて、こういう会話は必要やし、定期的にちゃんと喋ることをせなあかんなって思ったんです。コロナ禍で物事の進め方も変わったじゃないですか」
●会わなくてもできることが増えましたからね。
「物理的なことだけで言うとそうですよね。オンラインで会話をすることもあるし、LINEのやりとりだと既読スルーしてたら進めるから、みたいなこともあるし。俺は、コミュニケーションを取りづらいと思うことがいっぱいあるんです。文字でやり取りするのも、みんながみんな上手いわけじゃないし、タメ口で話すことがいいときもあれば、敬語だと距離が生まれるときもあるし。直接喋ったら5分で済む話を、なんでこんなに気を遣って何回も書き直したりしてるんやろって思うことがいっぱいある。だから、やっぱりバンドは定期的に会わなあかんと俺は思ってるし、何はなくとも集まる日を作るようにしませんかっていう話を最近してるんです。特にPsycho le Cémuは、いまでも機材車の中で決まることがあまりにも多すぎるから。それも、ちっちゃいハイエースじゃないとダメなんですよ、グランドギャビンになったらもう会話できひんから」
●ハイエースってかなり密着しますもんね。
「こんな歳になって、こんなにギチギチにくっついて何なんやろうって思うんですけど、Psycho le Cémuはそうじゃないとものを作られへんなっていつも思うんですよ。その瞬間はバババッって決まっていくから」
●ただ、バンドの運営に対する役割分担が、ここまで大きく変化しているのは珍しいんじゃないかなと思います。
「そういう話はあんまり聞かないですよね」
●seekさんみたいなタイプのメンバーが後から出てくると、逆に上手くいかなくなるケースのほうがあるかも。
「だから、やっぱり役割分担は変わってなくて、いまでもDAISHIとLidaが見守ってくれてるみたいなことじゃないかな、わからないですけど。Psycho le Cémuが動いてない6年間に俺はずっとヴィジュアル系の世界にいたから、俺が動くことが増えたんですよね。でもいまも、DAISHIさんのこだわりはめっちゃ強いんですよ。”俺、バランサーやから、バランスを取って決めるから“って言うんですけど、全然バランサーじゃないなって思う(笑)。最後になってから、”何かな~”って言い出すことが多くて。でも、そこが俺は好きやし、DAISHIさんの肌感で気になることは言ってくれたほうがいい。今回のツアーで、チケット代の安いプランを設けたのもDAISHIさんの発案なんです。どうしてもコロナ禍でチケット代を上げざるをえなくなって、新しいお客さんにも来てもらいたいと言いながら、新規の人が入ってこられへんようなチケット代になって、やってることがチグハグやったんです。それはわかってても、売れ行きを読み間違えるわけにはいかへんから、俺はどうしてもマネジメント側で考えてしまいがちなんです。でもDAISHIさんは、これじゃあかんと思うって言ったから。そういうこだわりはあってほしいし、やっぱりリーダーはDAISHIやと思いますね」
●バンド全体の感覚としては、やっぱりリーダーはDAISHIさんだと。
「去年までのコンセプトの『RESISTANCE』は、YURAサマがプロデューサーで台本も書いてたけど、新しいコンセプトは、台本はみんなで書こうとDAISHIが言ってるんです。だから、その都度、役割が変わる部分はありますけど、俺はやっぱりマネジメント側の部分ですよね。そういう会話をしたほうがいいと思うからこの日に集まりませんかって言い出して、議題がこれだけありますけどって始めに投げるのは俺。でも、決めていくのはやっぱりDAISHIさんみたいなところがあります」
2024年は間違いなく重要な意味を持つ年になる
●最初に、再始動してから10年続いたことが大きいというお話がありましたけど、それを続けてこられた大きな要因は何だと感じていますか。
「一番はやっぱ武道館ですよ。いろんな決断をしたうえでPsycho le Cémuをやるという選択肢を選んで再始動したとき、何をするの?ってなったら、武道館をやらなあかんやんかっていうのは全員の頭の中にありましたよね。そこが再始動したときの五人をくっつける一番の理由ではあったかなと思います。それが叶ってないから、いまの状態になってるところももちろんあると思うし」
●武道館を追い続けることで、活動も続いている。
「でも、途中からは武道館という言葉はあんま使わなくなりましたね。俺がステージで最後に言ったのはね、いや、武道館という言葉は言ってると思うんですけど、“もうあと一歩で武道館やし、頼むから、次のライヴにお客さんを一人連れてきてくれ”みたいなことを言ってる時期もあったけど、もうそれはないかな。2017年4月30日の新木場STUDIO COASTのライヴまでかな。そのときに、もうこれは厳しいかもって思った記憶がある。再始動してから、ちょっとずつ動員が減り始めてたんですよね。それに、日本武道館が改修されて2019年ぐらいから使えなくなるんじゃないかという話を聞いてて、2017年頃はすごく焦ってたんです。いま思ったら、必死感が伝わりすぎて逆に引かれてたと思う」
●バンドとしてもそういう感じだったんですか。
「いや、ちょっとズレてるなと思った瞬間があった。同じ熱量じゃないなって。自分でもちょっと空回ってると思ったし、これで武道館をやれても、五人で武道館に立ったなって泣かれへんやろうって気づいて。それで、残念やけどいまじゃないなと思ったのはすごく覚えてます。もう一度みんなの足並みが揃ったときに、俺ら五人でちゃんと話して決断しようと思ったのかな。そのうちに、20周年(2019年)が見えてきて、姫路市文化センターという目標ができたんです。それからコロナ禍に突入することになるんですけど」
●そしていま、25周年を迎えるわけですね。
「いまは、また変わっていってる最中だと思います。環境が変わろうとしている時期ではある。30周年に向けて、いまの状態をキープするという活動の仕方じゃなくて、もっとたくさんのお客さんに来ていただけるものをめざすというのが、いまの五人の考えやから。チケット代のことも含めて、全体としてそういうふうに変わろうとしてる状態だと思います」
●25周年ということで今回取材させていただいてますけど、もうすでに先を見ているというか。
「マジで時間がないですよね。これから五年でどこまでできるやろうと考えてるほうが大きいかな。時間足らんって思ってますね」
●周年はひとつの区切りだと思うんですけど、もう30周年に向けて突き抜けちゃってるみたいな。
「せっかくお祝いできるし、コンセプトも変わったとこやから、この一年間の中でやらなあかんこともいっぱいあるんですけど、バンドを取り巻く環境も含めて、バンドの土台からちゃんと作りたいと思ってるし、2024年は間違いなく、これから5年、10年とバンドが続いていく中で、重要な意味を持つ年になると思ってます。だから、できるだけメンバーと話す機会は増やしたいし、メンバーが何を考えてるのかちゃんと知りたいし」
●こうしてそれぞれに取材させていただくと、一人ひとりお考えになっていることがあるんだなと感じますね。
「五人で話さなあかんときもあるし、五人になったら喋らない人もいたりするし。ちゃんと一人ずつ思ってることは聞いておきたいですよね。でも、五人の中で、何か違うからやめたいわみたいな人はいないと思うんです。地元から出てきてメンバー五人変わらず、25年経ってまだやってるというのは、他のバンドを見ててもなかなかいないし、強いもんやと思います」
●出身が一緒で、一緒に上京してきたというのは、大きいのかもしれないですね。
「そうですね。あとはやっぱり一度活動が止まるぐらいの大きなニュースがあったこともデカいと思いますしね。逆に言ったら25年というヒストリーがあることが続けられる原動力になるし、そういうドラマがあることはすごく感じてます。そのうえで、いい時期に25周年を迎えられてると思ってるんですよね」
●バンドとしていい時期だと?
「30周年に向かっていく、これからの五年で、もう一回Psycho le Cémuをつくっていこうとしてるような感じなんです。『RESISTANCE』というコンセプトが悪かったとは思ってないんですけど、Psycho le Cémuの持ち味ではないっていうのはたぶん全員思ってたから」
●それで今回の新しいコンセプトになるわけですよね。Psycho le Cémuならではの派手なヴィジュアルはやっぱりワクワクしますけど、まだまだ謎が多くて。
「写真でいうと、前の二人(DAISHIとAYA)と後ろの三人(YURAサマ、seek、Lida)が、それぞれ地球人と宇宙人みたいなところなんですけど、後ろ三人も別の星というのか、違う生き物というか。STAR WARSでいうところのね、C-3POっていう金色のロボットみたいなのもいれば、チューバッカっていう毛むくじゃらのごっついのがいたりするような感じなのかもしれないし」
●seekさんは宇宙人なんですね。
「誰もが思い浮かべる、昭和の宇宙人なんじゃないですか。2015年に復活してから、俺は着ぐるみが多かったんですよね。でも、ライヴのステージングはseekの武器やから、着ぐるみで半減するのがイヤやっていうDAISHIさんからの意見があって、あれぐらいにしとこうと。『RESISTANCE』で、生身の人間で動けるようになったのを経てるから、seekが着ぐるみを着るのはもったいないという判断なんです」
●ある程度は動けるように。
「そうですね、たぶん。まだ着てやってないんでわからないですけど」
●ストーリーとしては、地球組と宇宙組で戦うとかではないんですか。
「まだわかんないですね。ざっくりと主軸みたいなの物語はあるけど、『Galaxy’s伏魔殿』というキーワードと写真だけで、いまはイメージしておいてほしいかな。何となく人種の違う人たちいて、敵なのか味方なのかもわからないぐらいの雰囲気だけ伝わっていればいいと思います」
●それは、5月3日のお楽しみですね。
「25周年の結成記念日ですけど、新しいコンセプトのスタートというのが強く出るライヴになると思います。新しいコンセプトがスタートするPsycho le Cémuのライヴって、やっぱり面白いんですよ。あのフライヤーの人らが生身で出てくる面白さがある。それをぜひ観ていただきたいですね」